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おぼろ月夜ブログ

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“戦争狂”池上彰と“貧困促進屋”池上彰は同一体(その1)

“戦争狂”池上彰と“貧困促進屋”池上彰は同一体(その1) ──日本の経済破綻と超貧困化を狙う“池上彰の犯罪”の先に来るもの

 

 

 

 

 

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2018-03-06  


“戦争狂”池上彰と“貧困促進屋”池上彰は同一体 ──日本の経済破綻と超貧困化を狙う“池上彰の犯罪”の先に来るもの

 

“凶悪共産党員”池上彰の嘘

 

 

 

筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 

 

 

 

 

 

 オルダス・ハクスリーすばらしい新世界 brave new world』(注1、邦訳1974年、原書1932年)は、ジョージ・オーウェル1984年』(注2、邦訳1972年、原書1947年)とともに、1970年代、保守系の中高生や大学生の間で、爆発的に読まれた。全体主義体制に対するこれほど痛快・痛烈な非難を文学作品の形で成功した古典的名著が、(1926年に始まる、1930年代の出版物が赤一色だった戦前・戦中では無理だとしても)敗戦の1945年8月から三十年間も翻訳されなかった事実は、何を物語るのか。

 

 スターリンの命令に嬉々として従った“アジア共産化戦争”大東亜戦争八年間の洗脳によって、戦後日本では、知識層も出版界も共産主義思想(“畸形の共産主義皇国史観を含む)や全体主義思想の枠内でしか思考できない状態が生まれ、この状況は出版界を心理的に圧迫し続けた。少し解放感が漂ったのは、1970年に入った直後だった。また、共産主義全体主義に汚染されていない正常な出版社がほんの一部であれ〇〇党の検閲・弾圧からやっと掻い潜れるようになったのも1970年に入ってからだった。とはいえ、戦後日本の出版界に訪れた、この束の間の自由は、1983年が最後だったようだ。1984年からの再締め付け的な検閲体制を強化した〇〇党の独裁的支配が広く深く浸透して、中堅の数社を除き、その後の日本における出版の自由はあっという間に消え去った。

 

 『すばらしい新世界』は、進歩した文明的全体主義体制とその独裁者「総統」の下で「幸福」が国家から強制的に与えられる状態を、未開の非文明国からこの全体主義国家に紛れ込んだ自由人が、人間の自由/幸福/人間性/思考の独立性/真理/宗教などの視点から追及する物語。「善と悪の関係性」に言及する箇所はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を彷彿とさせるし、ユートピア社会をこの世に求める事が“自由ゼロ/人間性ゼロの暗黒のディストピア”に至ると喝破した天才ベルジャーエフと同一の信条がこの著のモチーフとなっている。

 

 もっと率直にいえば、『1984年』が“スターリンの暗黒の体制”をオーウェル流に描いたのに似て、ハクスリー『すばらしい新世界』は、マルクスの『共産党宣言』を標的に、それが描く未来のユートピア“共産社会”を、諷刺のマントを着せてはいるが、ばっさりと外科手術的な解剖を試みたもの。だから、登場人物の一人に「バーナード・マルクス」の名をつけている。

 

 蛇足だが、日本では1970年代前半、バーク『フランス革命省察』もハイエク『自由の条件』『法と立法と自由』もまだ翻訳されていなかった。ために、『1984年』『すばらしい新世界』は、ハイエク『隷従への道』(1954年、東京創元社)や『ベルジャーエフ著作集』(全八巻、1960~1年、白水社)とともに、保守系人士の座右の書となった。だが、『1984年』『すばらしい新世界』の邦訳出版は十五年遅すぎた。『ベルジャーエフ著作集』出版とほぼ同時ならば、保守勢力に相当な影響力(=社共と猖獗する共産主義思想に対する攻撃力)を大いに発揮しただろうからである。

 
 
「(過去・慣習を切断した)マルクス共産社会=自由ゼロと非人間性」を喝破したハクスリー

 ハクスリーが描く全体主義国家「新世界」とは、その独裁者「総統」(マルクスがモデルか?)の言葉によれば、次のようなもの。まさに、『共産党宣言』が描いた通りで、人間は(手に入らない物は欲しがらない)共産主義的人間(=非人間)に改造されており、家族もない、時間も止まった“幸福と快楽しかない共産社会”そのもの。  

「(この全体主義体制「新世界」の)人々は幸福だ。欲しいものは手に入るし、手に入らないものはみんな欲しがらない。人々は暮らしが楽で安全だ。病気にもならない。死ぬことを怖れもしない」

「激情や老齢などというものは幸い知らない。(家族が『共産党宣言』通りに解体されているから)母親や父親に煩わされることもない。(極端な自由恋愛と雑婚の制度が制度化されているから)妻や子供や恋人などという、激しい感情の種になるものもない。(人間が改造されてサイボーグ化しているから)当然振舞わねばならぬようにしか振舞えないのだ。そのような条件反射訓練を受けているのだ」  

「それでも何かうまくいかないようなときは、ソーマというものがある。君(=新奇な進歩を危険視し、家族の価値も含めて古き良き伝統と慣習を重視する保守主義的人間、小説では「野蛮人の青年ジョン」)が自由のために窓からほうり投げたやつだよ」(第16章、カッコ内中川)。 

 小説で頻繁にでてくる「ソーマ」とは、副作用のない酒や宗教と同じく、効果が覿面の人造薬物。つまり、ハクスレーは、「全体主義体制とは、不満や体制批判が芽生えないよう人々にソーマを適宜服用させ、快楽と幸福の恍惚に絶えず耽溺させておくことが必要」だと喝破していた。  

 

 自由とは苦悩・苦難を伴うものだし、悪や不正義との闘争とも表裏一体だから、人間から苦悩や苦難あるいは悪・不正義との闘争を剥奪してそれらを不在の状態にすることは、その人間から自由を剥奪し自由ゼロにすることに他ならない。病気もない/老齢もない/家族もない/悪・不正義への公憤もない(=倫理道徳がない)、代りに快楽と幸福しかない共産社会とは、人間性の根幹を全て失った夢遊病者で“生ける死者”達の社会である。ハクスレーのマルクス理解度はかくも極めて正確。ドストエフスキーベルジャーエフに並ぶといってよい。  

 なお、「ソーマ」は、ハクスレーが“悪魔のスターリン体制”を知らなかったのかor知っていたのか分からないが、ソ連共産体制下における「裁判なしでの、強制重労働収容所への収容」や「無差別かつ無限の即時処刑」などの“恐怖テロル”の代替に置換えるべく、ハクスレーが独創的に考案したもの。

 

 マルクスの『資本論』とは、ソルジェニーツィン収容所群島』(注3)やコンクェストの『スターリンの恐怖政治』(注4)あるいは『共産主義黒書』(注5)が暴いたように、このような強制重労働収容所や無差別処刑の人類史上“最凶・最残忍な国家テロル”なしには一瞬たりとも存立し得ない、史上最も残忍な悪魔の狂説である。すなわち、『資本論』は、経済学の書ではない。共産党独裁権力に人間を無制限に殺戮させる“狂気の宗教国家”づくりが目的のカルト宗教書である。

 

 マルクスは、現実の人間や社会に無知だったから、このような恐ろしい“殺戮テロルの宗教書”を書いたのではない。マルクスは、意識して“無限の殺戮が永続する血塗られた反人間の社会”を企図してこれを書き上げた。レーニン『国家と革命』(1917年)を読めば、このことは即座に氷解しよう。

 

 要するに、池上彰『高校生からわかる資本論』とは、“血が滴る、狂おえる教祖”マルクスに拝跪して、『資本論』が目指した“この世の地獄=共産社会”を狂妄的に崇拝する、大量殺人の狂気に踊っている(劣悪さ低級さに目をつぶれば)悪魔の教宣本の一つに挙げられよう。池上彰を刑法に新設の「大量殺人予備罪」で処刑できるよう、この種の立法が急がれる。

 
 
“真理に盲”&“倫理道徳を憎悪する野獣”&“歴史を学ばない傲慢”が、池上彰の正体

 では、百年前に死んだはずの「大正時代におけるスーパー極左人士」が墓から生き返ったような、“時代錯誤のマルクス狂”池上彰の頭の中はどうなっているのだろうか。私が池上彰に本格的な興味を持ったキッカケは、2009年刊の池上彰『高校生からわかる資本論』が、1999年刊の朝日新聞社刊のAERAムック『マルクスがわかる』と表題が余りに似通っていたのにはっとした時。また、池上とは昵懇な過激共産革命同志・的場昭弘が書いた『マルクスを再読する』(2004年)の表題とも何か相通じるものをふと感じたからだ。

 

 なお、彼らが整然と隊列行進する軍隊のような、“日本に再び共産革命を”の信条からの教宣本連続出版は、次の流れ。背後に蠢く赤い司令塔が作成したアジェンダに従っていると解される。

マルクスがわかる』→『マルクスを再読する』→『高校生からわかる資本論』→『マルクス漫画講座』

 『マルクス漫画講座』は2015年刊で、“稀代のマルクス狂信の教徒”的場昭弘が監修し解説している。この2015年、池上彰は、『絶望の資本論』とすべきタイトルを逆立ちさせた、佐藤優との共著『希望の資本論』を朝日新聞社から出版した。なお、佐藤優には『いま生きる資本論』があり、これも上記のチャートに入れるべきだが、ここでは割愛した。

 

 朝日新聞社/的場昭弘/池上彰三者連合が“マルクス教宣本”を連続出版して「マルクス復活→日本における共産革命の再興」教宣運動を熱烈に展開しているのは間違いなかろう。だが、これを危険視する常識も、祖国日本を護るべく粉砕しておこうとの義務感も、日本のどこにも存在しない。

  

 池上彰の『高校生からわかる資本論』とは、一言で言えば、次のようなもの。鉄面皮の池上彰は、IQが極度に低く『資本論』が皆目理解できない自らの無学・無教養を恥ずかしいとも思わず、馬鹿げた破綻狂説として経済学からとうの昔に排斥され死んだはずのマルクス労働価値説を何としてでも復活させたい執念一途に、マルクス労働価値説の再生と神格化に妄言・詭弁を躊躇わない。

  

 マルクスの『資本論』は、「労働価値説/剰余価値説=搾取論/労働者窮乏化説/資本主義崩壊説」という四大“反・現実”の真赤な嘘を土台に、その上に“妄想の連鎖”で組み立てた壮大な“反経済/反人間”の哲学的思惟。池上彰は、経済学がチンプンカンプンで、『資本論』すら全く理解できないくせに、ひたすらマルクスの「労働価値説/剰余価値説=搾取説/労働者窮乏化説/資本主義崩壊説」だけを経文のように口ずさむ。この姿は、麻原彰晃の「ハルマゲドン」教をひたすら信じる“オウム真理教のおしゃべり広報官”上祐史浩そっくり。  

 池上彰上祐史浩そっくり度は、それぞれの教祖の狂説を“信仰する態度のそっくり”だけではない。オウム真理教は、ハルマゲドン狂説を真理かに見せるべくサリンを地下鉄に撒いて「ハルマゲドン」が近づいているかの自作自演を決行した。

 

 一方、池上彰共産党員は、こぞって『資本論』の労働者窮乏化説をさも真理であるかに演出すべく、日本の勤労者の所得悪化と貧困層づくりに躍起である。麻原彰晃オウム真理教とは、仏教で厚化粧をしているが、マルクスの『共産党宣言』を根本教義とした、共産党とは親族のレーニン型カルト宗教。私有財産否定や集団生活など、両者の類似性が無数に散見されるのは至極当然。

 
 
原始時代の「大家族の自給自足」を“理想経済=共産社会”と狂妄した狂人マルクス

 教条的な日本共産党員だった岡本太郎に、1970年の大阪万博会場のシンボル“太陽の塔”という芸術作品がある。岡本によれば、“縄文時代人が見た太陽”をイメージして、そのモチーフは「石器時代から縄文時代までの日本人にはまだ富の不平等が発生していない理想時代だったから、それへの回帰祈願の表現」だという。

 

 確かに弥生時代からは、富者と貧者という、私有財産における格差が発生し、富者がその責任を自覚して政治的秩序づくりに向かう“意図せざる人間行為”を始めることになる。つまり、弥生時代以降の日本人を“悪(富、不平等、政治秩序=国家)に汚染された人間”と考える岡本太郎縄文時代崇拝は、“オラン・ウータンなど動物が無所有で平等である”富もない/家族もいない/薬もない超野蛮なジャングル・荒野時代や動物の世界を、人類の理想社会だと考えたルソー『人間不平等起源論』の“平等教”信仰から産まれた。

 

 さて、マルクスだが、ルソー『人間不平等起源論』の“平等教”信仰については、岡本太郎と全く同じ。違いは、マルクスは、これにサン・シモンの「計画経済」とヘーゲルの「グノーシス神学の弁証法」をブレンドしたこと。この結果、マルクスの「平等教+共産社会の経済体制」が、反・現実の悪魔的な夢想で妄想され、それが『資本論』に結実した。

 

 つまりマルクスは、原始時代への回帰を本能とする野蛮人である事においては、平等教信仰と共に、岡本太郎と同類だが、理想の経済社会(=共同生産する経済社会)を、「商品」の「交換」が存在しない“原始時代の大家族”における自給自足に求めたことにおいて、岡本太郎と異なって、経済社会学者となった。が、マルクス経済社会学が根本的に狂ったカルト宗教になったのは、大家族の自給自足のための生産(経済学ではこれを「生産」とは言わない)を、あろうことか「経済社会の生産」だと短絡する致命的な誤謬を犯したことに端を発している。「商品」「交換」とそのための「生産」は、あくまでも家族外で利益を得るために行われるものを指し、自給自足の家族内における「商品」「交換」「生産」は存在しない。

 

 当然、「自給自足の余剰生産物」など、有り得もしない荒唐無稽な妄語。縄文時代ですら鏃や土器が「商品として交換」のために「生産された」のであって、自給自足の余剰生産物ではない。しかも、「商品」として「生産」され「交換」された時に「価値」が発生するから、交換されなかったら価値はなく、そのような鏃や土器をいかにたくさん作ろうとも価値を産まない。それらは石の欠片であり、焼かれた粘土の塊に過ぎない。

 

 つまり、(価値を産まない物を製造させても)労働によるから価値が発生するとしたマルクスとは、労働そのものを神格化して崇拝する労働狂のカルト宗教の狂人教祖に他ならない。マルクスのこの狂説を仮に現実に実践すれば、必然的に人間を強制労働させる国民奴隷化制度のソ連型・北朝鮮型の経済体制とならざるを得ない。レーニンや金日成は、マルクス狂信をした瞬間、「この世に現れた残虐な悪魔」となった。池上彰佐藤優もまた、「この世にあらわれた残虐な悪魔」の一味である。

 

 労働の価値は、商品が交換される市場がその生産物の価値をおおむね予測させる信号や情報を発生させ、またこの市場が最終的には価値を決定するが故に、確定される。これこそが、個人の労働に対し市場が与える(国家権力の支配下にない)社会的評価である。つまり、市場における商品交換機能が、生産物(商品)の価値をコントロールする。このように、労働の価値は、(不参入の自由が保障された)市場への参入によってしか定まることはない。「価値は、労働そのものから産まれる」など妄想で、万が一にも現実の話ではない。

(続く)

 

 

 
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